
3月、高校3年間を共にした仲間たちに別れを告げ、新天地へ向かった陸上800メートルの日本のエース・久保凛(18)。昨年7月の日本選手権で日本新記録を樹立し、高校生で東京世界陸上の切符を掴んだ天才ランナーだ。「高校は挫折も全然なくて駆け上がっていけた」と語る彼女だが、世界と戦うため実業団(積水化学)に進んだ社会人1年目、競技人生最大の試練が待ち受けていた。
世界を見据えた過酷な挑戦
久保が取り組む800メートルは、スピードとスタミナの両方が求められる過酷な競技だ。世界レベルでは、100メートルを平均14秒台で走り続ける必要がある。
社会人1年目のシーズンを前にした5月。久保は長野県の菅平高原、標高1300メートルの高地で強化合宿を行っていた。指導するのは、800メートルの元日本記録保持者である横田真人ヘッドコーチ(TWOLAPS)だ。「世界で金メダルを獲りたいというのが共通認識。まず夏にピークをもっていって、そこからアジア大会かな」と、指揮官は見据える。
チームメイトには、長距離2種目(10000m、ハーフマラソン)の日本記録保持者である新谷仁美(38)をはじめ、オリンピックや世界陸上で活躍する選手ばかりが名を連ねる。走りの強化に加え、専属トレーナーと共に体の弱点を見つめ直す日々。そして海外での戦いを見据え、英語の勉強も始めた。入団して2か月、明るく物怖じしない性格で、すっかりチームに溶け込んでいた。
田中希実を破った鮮烈デビュー
まだ18歳の久保がシニア戦デビューを果たしたのは、わずか2年前の高校2年の時である。そのレースで相まみえたのは、日本中長距離界のエース・田中希実だった。初出場にして、いきなり田中を破る鮮烈なデビューを飾った当時16歳の久保は、「たくさんの憧れの選手と走る初めての機会となって、優勝することができたのでとても嬉しい」と喜びを口にしていた。
この勝利を皮切りに国内トップクラスのレースで7連勝を達成。日本女子初となる1分台という前人未到の記録を打ち立てた。久保の最大の武器は、168センチの長身を活かした大きなストライドと、上半身が全くブレない走りにある。エネルギーを無駄なく推進力へと変えるこの走りで、さらに自身の日本記録を更新。日本女子最年少での東京世界陸上出場を果たした。
わずか2年で日本陸上界のスターとなった久保。だが、実業団という新たなステージで、過酷な現実が待っていた。
狂った歯車…極度のプレッシャーとケガの連鎖
5月10日。久保の社会人デビュー戦となる木南記念陸上の会場は、記録への期待に膨れ上がっていた。
スタート直後から果敢に前に出た久保だったが、ラスト1周直前で失速。結果は7位、自己ベストから7秒以上も遅れるフィニッシュとなった。高校2年のデビュー以来、一度も日本人に負けていなかった久保の、まさかの惨敗。レース後、彼女は報道陣に対応することなく会場を後にした。
レース直前、久保はパニックに陥っていた。一体、何が原因だったのか。横田ヘッドコーチは「走り出した瞬間『違う』と思った。本人も『アップは良かったけど(選手)召集でパニクりました、訳が分かんなくなっちゃいました』って」と振り返る。
久保を襲ったのは、極度のプレッシャーだった。日本記録保持者の社会人デビュー戦ということもあり、周囲の期待は相当なものだった。
「過度なプレッシャーは…やっぱりまだ18歳なので。見せない部分もありますけど、僕もフォローしきれなかった部分かな。もちろん本人と話して決めた初戦ではあったけど、もっと準備をきちんとしてから出させてあげても良かったのかな」と横田ヘッドコーチは悔やむ。
のしかかる重圧に加え、コンディションにも不安を抱えていた。高校3年の夏以降、左ひざ裏の肉離れや右足の疲労骨折と度重なるケガに悩まされ、競技人生で初めてとなる長期離脱を余儀なくされていた。久保は「1か月半は走れなかった。ウォークとか水泳とかバイクはしていたけど。戻ったら全然走れなくて…」とその苦境を語る。
スパイクを履いて本格的な練習を再開できたのは、レースの3週間前。心も体も、万全には程遠い状態での敗北だった。
レース後の久保について、横田ヘッドコーチは「レースの後、3日間くらいご飯食べなかった。全然食べられなくて。このまま今シーズンいっちゃうかなと正直心配した。ここから立ち直れるのかなと。ヤフコメ見ちゃったりしていたので」と明かす。
ネット上には手厳しい批判や心無い声が溢れ、その大きすぎる期待の反動が彼女をさらに追い詰めた。不甲斐ない自分を責め続け、食事もまともに摂れない日々が続く。予定していた次のレースもコンディション不良で欠場した。
憔悴しきった久保に声をかけたのは、チームメイトの新谷だった。数々の大舞台を経験してきたベテランからかけられた言葉を、久保はこう振り返る。
「『自分のために走っているんだから、他のことなんか気にしなくていいよ』みたいに励ましてくださって、『自分もたくさん苦しい時もあった』と話して、すごく刺さるというか。『まだ自分はこのくらいなんだ』と、こんなことしている場合じゃないなと思った」
先輩の言葉に背中を押され、少しずつ前を向きはじめた。
異例のタイムトライアルと、掴み取った完全復活
それでも、失った自信を取り戻すのは容易ではない。惨敗から2週間後、横田ヘッドコーチはある決断を下す。それは、本来レース前には行わない、記録を狙うタイムトライアルだった。タイムが悪ければ、不安を絶望へと変えかねない、コーチにとっても大きな賭けだった。
「本人と話をして、タイムトライアルをしたんです。人生で、自分も選手にもやらせたことない。気持ちの問題だと思ったので…僕が引っ張って、そのなかで『これくらいは絶対出せるというタイムを出したらいいんじゃない』と言った」横田ヘッドコーチは意図をこう語る。
コーチも共に走り、ペースを作る。そこで久保が出したタイムは、木南記念の日本選手最速を上回る2分3秒だった。
不安が完全に消えたわけではない。それでも、あの惨敗からおよそ1か月が経った5月30日。海外の選手も参戦するMDCグランプリで、久保は再びスタートラインに立った。
1周目、久保は自身の持つ日本記録ペースで通過。残り200メートルでトップを明け渡すも、最後の直線で再び逆転し、見事、復活優勝を果たした。
そして迎えた、6月13日の日本選手権。ゴール前の接戦を制し、3連覇を達成。9月の名古屋・愛知アジア大会への切符を掴み取った。
「初戦からうまくいかなくて、心が折れそうになったんですけど。何とか立て直せたこと、今はすごくよかったと思っています。もっとレベルアップして、間違いないなと、安心して見ていただける力をつけて(アジア大会に)帰ってこられたら」
どん底を知り、さらなる強さを手にした18歳。9月のアジア大会で、どんな走りを見せてくれるのだろうか。
(TBSテレビ「バース・デイ」2026年6月20日放送より)
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