
9月4日に亡くなった、歌手・橋幸夫さんの通夜が、本日、都内で営まれました。
通夜に参列した、歌手の高道さん(狩人)が、その想いを語りました。
【写真を見る】【 橋幸夫さん・通夜 】 狩人・高道さん 「僕たち『後輩』というのは、先輩の素晴らしい歌の数々を歌い継いでいくのが使命」「橋さんの歌を歌っていければ幸せ」
「今年2月に橋さんの奥様の誕生日で、みんなで金沢で誕生パーティーをやって、うちの妻も金沢に来ていたんです。それが約半年でまさかこんなになるとは」と高道さんは話します。
6月に行われた最後のステージについて、「(橋さんは)元気がなかったんですけど、歌を歌い出すともう音程とかもう本当に考えられないぐらい素晴らしい歌で、それはもうすごいなと思って」と振り返ります。
さらに「普通、音が狂ったりなんか元気がなさそうな歌になるんだけど、もう歌に対するそれはすごいなと本当に感心しました」と当時の印象を語りました。コンサートの翌日から橋さんが入院したことを聞いて「本当にびっくりしました」と述べています。
高道さんは、アルツハイマー型認知症だった、橋さんの歌唱姿勢についても言及しています。「もちろんカンペっていうんですか、出てる時はあるんですけど、もうあういうもの見ないんですよ。見ちゃうと逆になんか忘れちゃうっていうか。本人はほとんど見てなかったんですよ」と説明します。
橋さんとの関係について、「僕が生まれた時、昭和35年にデビューされているんです。僕、うち兄貴と一緒に歌ってますけど、実は5人兄弟いまして、2番目の兄貴が橋幸夫さんの大ファンというので、僕らが物心ついた時から橋幸夫さんの歌をずっと聴かされて育ったんです」と話します。
「体の中が橋幸夫さんの歌で僕らいっぱいなんですよ。最初物心ついた時の歌はそういう橋さんの歌ばっかりだったんで」と幼少期の思い出を語る高道さん。「まさか橋さんと、夢コンサートでずっと共演できるなんて、もっと夢のようですよ、本当に」と感慨深そうに話しました。
最後のコンサートでの橋さんの姿を、「その日、もうずっと車椅子だったんですよ。だけど最後、お客さんの前で立ち上がって、あれもびっくりしました」と、高道さんは振り返ります。
最後に、高道さんは「僕たち『後輩』というのはやっぱり先輩の素晴らしい歌の数々を歌い継いでいくのが使命だと思っているので、橋さんの歌を歌っていければ幸せだなと思います。皆さんに聴いていただきたいと思っております」と、橋さんの遺志を継ぐ決意を語りました。
橋幸夫さんは、高校在学中にビクターのオーディションに合格し、1960年(昭和35年)「潮来笠」(いたこがさ)でデビュー。同年、同曲の爆発的なヒットに伴い日本レコード大賞に新人賞が新設され、初の受賞者となりました。さらに同年、NHK「紅白歌合戦」に初出場を果たし、以降17回連続出場。1962年(昭和37年)吉永小百合さんとのデュエット曲「いつでも夢を」、1966年(昭和41年)「霧氷」で日本レコード大賞を2度受賞。舟木一夫、西郷輝彦とともに“御三家”と呼ばれ、人気を博しました。
2023年5月3日には歌手活動からの引退を宣言。しかしファンや講演会からの声もあり、翌2024年4月に引退を撤回して活動を再開しました。また、橋さんの歌を歌い継ぐ歌手の募集が行われ「二代目 橋幸夫 yH2」というユニットがデビューするなど、歌への情熱を絶やすことはありませんでした。
橋さんのアルツハイマー認知症については、今年5月に夢グループの会見で公表されました。会見で配布された診断書によると、橋さんは、2022年に軽度のアルツハイマー型認知症と診断され、2023年には右頭頂葉脳梗塞を併発。去年の年末に、中程度のアルツハイマー型認知症と診断されていました。
【担当:芸能情報ステーション】
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