E START

E START トップページ > エンタメ > マガジン > 「本当に大切な人と過ごすことができなかったすべての人へ」――60代で初めて書いた、43年越しの実話小説

「本当に大切な人と過ごすことができなかったすべての人へ」――60代で初めて書いた、43年越しの実話小説

2026-10-30 17:00:52

思春期に出会った、ボクシングにすべてを賭ける青年。会えないまま43年が過ぎた。「このままやり残して人生を終わりにしてはいけない」――原千鈴さんは自ら動き、一通の手紙を送った。その実話をもとにした小説『六ラウンド、二分十八秒の後で』(幻冬舎)が、発売から1年を迎えた。初めて小説を書いた原さんに、その後を聞いた。

原千鈴さん(35歳ごろ)

六ラウンド、二分十八秒

六ラウンド、二分十八秒。作中で主人公のボクサーが、最後の試合でKO負けを喫したラウンドと時間だ。

「この小説のすべてです。ただの時間ではなく、主人公の二人にとって普遍的な時間なのです」

原さんはそう話す。その一瞬を境に、二人の人生は引き裂かれた。止まっていた時間が再び動き出すまでに、43年かかる。

本作は、原さん自身の実体験をもとにした小説だ。作中の主人公「新山選手」には、モデルとなった男性がいる。

きっかけは一通の手紙

彼がグローブを置いてから、連絡は途絶えていた。住所も連絡先も分からない。手がかりは、名前だけだった。それでも原さんは、一通の手紙を書いた。

「このままやり残して人生を終わりにしてはいけないと思ったからです」

奇跡を感じたのは、そのあとだ。何の手だてもなかったのに、43年の空白を越えて、また巡り会えた。相手の居場所を探し当てられたことも、手紙が彼の手に渡った経緯も、「不思議でした」。

手紙が届いた日、彼は普段は見ることのない郵便ボックスを、たまたま覗いたのだという。

実際に送った手紙

彼は、スーパースターに見えた

なぜ、そこまで長く想い続けられたのか。

「出会ったのが、感受性の強い思春期だったからだと思います。私とは別世界の人で、ボクシングにすべてを賭けている彼が、スーパースターに見えました」

再会を、原さんは「人生を頑張ってきたことへの、神様からのご褒美」と呼ぶ。以来、生きていること自体への感謝を、強く抱くようになった。

当時の写真(左19歳、右20歳)

思い出の品々

小説の中の出来事が、確かにあったことだと静かに告げる品が、原さんの手元には今も残っている。ページの中の物語と、43年という時間をつなぐ、数少ない「実物」だ。

彼が引退するとき、原さんはトランクスを受け取った。しかしそれは、火災で焼失してしまった。そのことを再会後に伝えると、彼は「手元には、これだけが残った」と、トロフィーとガウンを送ってきた。43年を経て、原さんの手元に届いた二つの品。

トロフィー(敗者に贈られた健闘賞)

 

ガウン(新人王獲得後スポンサーから贈られた品)

「迷わず書けた」

初めて小説を書くことへの不安を尋ねると、原さんの答えは早かった。

「書き始める前に、不安はなかった」

実体験だから、場面が次から次へと浮かぶ。それを文章にするだけだった。応募のきっかけは「ダメ元のチャレンジ精神」。幻冬舎の「セカンドライフ小説コンテスト」だった。

エッセイではなく、小説にした理由は明快だ。

「一人でも多くの方に、私たちが歩いてきた道を知ってほしかった。それには、小説で生々しく描くしかないと考えました」

43年後に初めて聞いた、彼の「本当の話」

唯一、苦戦したのがボクシングの描写だった。原さんはボクシングの関係者ではなく、競技の経験もない。そこで頼ったのが、新山選手のモデルとなった男性本人だった。

聞かせてもらったのは、減量の過酷さ、リングに上がる恐怖、そして当時の彼の身に起きた事実と心の内。

43年の空白は、取材を通じて、少しずつ埋まっていった。

そうして書き上げた中で、原さんが今も思い出すと胸が苦しくなる場面がある。新山選手の最後の試合、そして別れの電話。

「彼がKOでダウンする場面は、今でも目に浮かんで辛くなります」

「ただの恋愛小説ではなく、人生を描いた物語でした」

発売から1年。読者から届いた声で、いちばん嬉しかったのがこの一言だという。

元WBA世界ミドル級王者の村田諒太氏からも、ボクサーが戦意を失っていく過程がリアルで共鳴した、との感想が寄せられた。

ボクシングを知らない読者からも、ヒリヒリする試合の緊張や、過酷な減量と調整の描写がリアルだという声が続いている。書店でも反応があり、2025年12月22日〜28日の紀伊國屋書店玉川高島屋店の週間ランキング(全カテゴリー)で2位に入った。

1年ぶりに読み返した感想を尋ねると、こう答えた。

「当時の熱い思いを、ありのままに描いていると思います。もう少し付け加えたい部分もありますが、くどくなるので、これで良かったと満足しています」

眠っていても、文章が降りてきた

60代からの挑戦で、大変だったことは。そう聞くと、答えは明快だった。

「大変なことはありません。楽しかったです」

執筆中心の毎日だった。家事の途中で文章がふっと浮かぶと、忘れないようにすぐ書きとめる。眠っている間に降りてきて、起きてメモしたこともあった。次々と書きたい場面が浮かび、どんな表現にしようかと考えること自体が楽しかったという。

年齢を重ねたからこそ書けた、とも言う。「さまざまな体験をしてきたからこそ、です」。

何か始めたいと迷っている同世代には、背中を押す言葉がある。

「迷うことがあるなら、すぐに始めたほうがいい。人生は一度しかないし、一瞬で終わってしまう。やり遂げたときの達成感は、何とも言えません」

次の挑戦は、バナナ農園。そして、もう一人のボクサーの話

次にやりたいことを聞くと、意外な答えが続いた。

「南国のバナナを育てて、収穫したいんです。鉢植えでは、すでに一度実をつけさせました」

次回作の構想もある。作中に登場するもう一人のボクサー、世界フライ級王者の物語だ。こちらは創作で書くことを検討しているという。

「生きていてくれて、ありがとう」

この本を、誰に届けたいか。

「本当に大切な人と過ごすことができなかったすべての人へ。そして、これから人生を歩むすべての人へ、大切な選択を誤らないでと伝えたいです」

最後に、今も想い続けている人へかけたい言葉を尋ねると原さんはこう答えた。

「生きていてくれてありがとう。私を忘れないでいてくれてありがとう。今度生まれてくるとしたら、一緒に人生を歩きましょう」

取材を終えて

43年前に止まった時間を動かしたのは、「やり残して人生を終えてはいけない」という、たった一つの思いだった。原さんはその思いのまま手紙を出し、60代で初めて小説を書き、今は鉢植えのバナナと次回作へと目を向けている。

話を聞いて印象に残ったのは、「大変なことはありません。楽しかったです」という言葉の軽やかさだ。年齢を理由に立ち止まるのではなく、思いが動いたときに、自分から動く。恋愛小説の著者である前に、人生の後半を自分の足で歩く一人の人としての原さんが、その言葉の向こうに見えた。

『六ラウンド、二分十八秒の後で』は、ボクシングを知らない人にも、かつて大切な人を想った人にも、これから何かを始めようとする人にも届く一冊だ。

書籍情報

書名 『六ラウンド、二分十八秒の後で』

著者 原 千鈴

出版社 幻冬舎

発売日 2025年10月21日

定価 1,760円(税込)

ページ数 226ページ

販売サイト https://amzn.asia/d/0drtjWZi

著者プロフィール

原 千鈴(はら・ちすず)。60代で初めて小説を書く。幻冬舎「セカンドライフ小説コンテスト」への応募をきっかけに、自身の実体験をもとにした自伝的小説『六ラウンド、二分十八秒の後で』で単行本デビュー。

情報提供元: マガジンサミット