異業種からの承継へ 老舗蕎麦店を未来につなぐ経営者の覚悟
2026-06-05 12:00:18

茨城県常総市で65年以上続く老舗蕎麦店「喜良久庵」。地域に根ざし、日々の暮らしに寄り添いながら、多くの人に親しまれてきた名店だ。現在、その暖簾を守るのは、保険業界で30年のキャリアを積んだ矢口智恵氏。異業種からの転身という決断の背景には、家族と店への真摯な想いがあった。受け継がれてきた味を大切にしながら、次なる形を模索する、その穏やかな歩みについて話を伺った。
家族の想いをつなぐということ
「お母さんを頼む」―その言葉は、今でも強く心に残っています。20歳のとき、父が出前中の事故で突然亡くなりました。45歳という若さでした。あまりに突然の出来事で、現実を受け止める間もないまま、当時は母と妹夫婦とともに店を守る日々が始まりました。
「喜良久庵」は、祖父母の代から続く蕎麦店です。父は東京・本所で修行を積み、その技術と情熱を胸に地元へ戻り、母とともに店を開きました。その後、母と妹夫婦が中心となって店を切り盛りし、家族でつないできた大切な場所です。地域の方々に支えられてきたこの店は、私にとって常に生活の一部であり、“当たり前の風景”でもありました。
ただ、私自身は長く別の道を歩んできました。保険業界で30年間、営業として従事してきたのです。目に見えない商品を扱うからこそ、信頼関係を築くことが何より大切な仕事でした。
転機となったのは、母との別れでした。店の存在は身近にありながら、「自分が継ぐ」という覚悟はどこか遠くにありました。しかし、大黒柱だった母がいなくなったことで、「このままでは店が途絶えてしまう」という現実を突きつけられ、自ずと覚悟が固まりました。
「やるしかない」。そう腹を括り、店に戻ったのは2年前のことです。経営への参画は手探りの連続ですが、家族が守り抜いてきたこの場所を、自分の代で終わらせたくない。その想いが、今も変わらず私を支える原動力となっています。
変わらない価値と、時代に合わせた変化
「喜良久庵」の魅力は、何よりも“変わらない味”にあります。使用しているそば粉は、茨城県が誇る最高峰の銘柄「常陸秋そば」。香りが高く、そば本来の豊かな風味を存分に堪能できるのが特徴です。
また、そばと並んで多くのお客様に親しまれているのが、厚切りカツ丼です。注文を受けてから揚げることで、サクサクとした食感を楽しめるのも、こだわりの一つです。特にカツ丼とそばのセットは、創業当時からの不動の人気メニューです。
かつては「舞茸の天ぷら」を50円で提供するなど、「安くておいしい」ことを信条としてきました。しかし現在は、原材料費の高騰を受け、適正価格への見直しを進めています。伝統の味を守り続けるために、持続可能な経営へと舵を切る必要があったからです。
一方で、新しい挑戦も始まっています。揚げたての天ぷらやカツ、ネギトロを一度に楽しめるぜいたくな「よくばり3種丼」や、そばを使ったデザートの開発など、次世代を見据えたメニューにも意欲的に取り組んでいます。
また、店舗の雰囲気づくりも大切にしています。「気楽に来てもらいたい」という店名に込められた想いの通り、常連のお客様との会話や柔軟な接客は欠かせません。効率化が求められる時代の中で、モバイルオーダーの導入も検討していますが、顔が見える接客との調和をどう図るのか。喜良久庵らしい「おもてなし」の形を、今まさに模索しています。

この街とともに歩み、未来をつなぐ
私が目指しているのは、「お客様が笑顔で帰れる店」であり続けることです。そのささやかな積み重ねこそが、店の未来をつくると信じています。
近年、店を取り巻く環境は大きく変化しました。近隣に道の駅が誕生したことで、県外からのお客様も増え、店はかつてない賑わいを見せています。一方で、水海道の商店街全体に目を向けると、かつての活気は薄れつつあります。つくばエクスプレスの開通により、人の流れに大きな変化が生じたためです。
だからこそ、この店が地域の灯りでありたい。「元気な店があれば、街もまた元気を取り戻す」。そう信じて、日々の営業に向き合っています。
その一環として、高校生を対象としたキャラクター募集企画も実施しています。日頃から足を運んでくれる学生たちとともに店を盛り上げたい―そんな想いから生まれた取り組みです。私自身、保険業界での経験を通じて「信頼の大切さ」を深く学びました。飲食店は、「おいしさ」という確かな対価で再訪いただけるシンプルな魅力がありますが、その根底にあるのはやはり人と人とのつながりです。
祖父母の代から受け継がれてきたこの店を、次の世代へつないでいく。そのために、変わるべきところは柔軟に変え、守るべき伝統は守り抜く。地域とともに歩みながら、これからも愛される喜良久庵であり続けたいと思っています。

情報提供元: マガジンサミット